ある地方紙に、81歳の方が「終活と言う言葉」と言うタイトルで寄稿されていました。
「終活」と言う言葉が常々気になっていましたので紹介させて頂きます。
「今や高齢者だけではなく、50,60代の人もそろそろと言っている。
友人たちは終活と言いながら自分の趣味を処分している。
これから先はバス停でバスを待つように、
来るその日をじっとして待つことにするのでしょうか」
高齢者になったら始末に困るものを残さず、事務的な手続きだけ怠らなければ、
後はどなたかに託してもいいのではないか
生きているうちは終わりなど意識せず気楽に過ごしたい」(一部抜粋)
また、寄稿者は、
「高齢者を追い詰め焦らせる『終活』という言葉に代わる、
のんきで明るいすてきな言葉はないものかなあ」と結んでいます。
2009年に生まれた「終活」という言葉。
終活が世間に浸透した背景として、少子高齢化や核家族化、長寿化があげられます。
介護や死後の手続きなど、残される家族の負担を減らし、自分自身が納得した最期を迎えるために、自らの老後や死後について備える必要性が高まっています。(「お仏壇のはせがわ」ホームページより引用)
ブームとしての終活は、残された子孫に迷惑を掛けないことが主眼となっているようです。
まるで物を残すことが罪悪のような感を受けます。
清貧の勧め?修行僧のような生活が望ましいと評価をしているのでしょうか。
戦後の物がない時代だけではなく、食料を蓄えることが始まった縄文時代時ころから物は増えています。
物を蓄える行為が悪だとしたら、人の性は悪であるということに帰着しませんか。
生きている以上、物を集め、手許に置き、それらを愛でて生活を共にし、最期に物が残るのは仕方ないこと。
それを後の者に託すよう話しておくことで、十分な終活と言えませんか。
一方で、迷惑を掛ける空き家やゴミ屋敷、モノ離れの時代などの言葉に、
世情は振り回され、過敏になっていませんか。
個人が常識の範囲内で残して行くものは、苦笑の対象となっても、怒りの対象とはならぬものでしょう。
終活ブームに踊らされず、家族や友人との付き合いを大切にし、思い出の詰まった物を大いに残して行こうではありませんか。
遺品を残せるのは先に死にゆく者の権利であるのですから。
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